昭和44年 池高創立50周年

創立50周年を記念して

丸尾謙二

 

昭和2年3月、私が東北大学を卒えて郷里池新田に帰り、人生は如何に生くべきか、私は何をなすことが最も生甲斐があるかをほんとに真剣に考え抜き、皆さんの御意見も伺いました。

その結論として、池新田補習学校長を引き受けてこれを改組し、一旦笠南公民実業学校として村振興、郷土開発に微力を傾倒することが私の生甲斐であり使命でもあると自認するに至りました。

爾来約一年間、笠南公民実業学校をさらに改組して中等学校(現在の高等学校)とし笠南地域に教育の殿堂を築いてみたいと結論するに至りました。

このことはすこぶる難事で、微力で簡単にできることとは考えませんでしたが、自分の生命を燃焼し尽くし、各方面にあらゆる活動を起こして郷土の皆さんに訴え御理解を仰ぐことに専念、ようやく池新田村議会の承認を得、もっぱら県当局に猛運動を展開し、ようやく県の内諾を得るまでに計画が具体化し、当時の長谷川知事の副申書を得ることに成功しましたので、昭和3年3月末当時の池新田村長小川氏と同道文部省に出向き粘り強く直訴して大臣の認可を要請致しました。

正義感・使命感に猪突猛進、認可を得なければ帰らない気魄で迫りました結果、ついにぎりぎりの3月31日認可を得ることに成功致しました。直ちに郷里に打電し、わがこと遂になれりと全く夢心地、感喜これに勝るものはありませんでした。時に私は26歳、全く暴虎馮河の猛進そのものでした。

爾来当時の池新田小学校の片隅に寄寓していた仮住居を、現在の敷地を選んで独立校舎を造ることになったのですが、この敷地選定がまたすこぶる苦難の問題で喧々ごうごうの激論でした。

私は秘かに県に連絡し県の指定を待つ策をめぐらせ、県の裁定によって現在の場所に定まったのです。私としては環境からも最適であり私の所有の土地が最も広い面積を占めていたので、将来も考え最適地と確信致しておりました。一片の私心もなかったことは当然です。

次に当面した問題は、校舎建設の資金問題でした。しかし、この問題は幸い池新田区の御理解により、区有財産の一部を売却してこれに当てるとの温い救いの手を差し延べて戴き、望外の喜びでした。設立費は27,000円でした。(今の2,700万円相当か)不況のどん底、米一俵が5円程度の時でしたから27,000円で3学級(定員150人)の乙種農校としては一応整った校舎ができました。

しかし、農学校ですから、学校の周囲に相当面積の実習地を獲得することが問題でした。

幸い周囲に私の家の田畑が相当広かったので、不足分は全部私の力で買収する決意を致し、大体必要面積買収に成功致したのです。この資金を養家の丸尾が私に与えてくれた理解と援助は嬉しい限りであり、事の成就の原因でした。

次に最も苦慮した問題は、乙種農学校の性格が一般人の理解を得ることが極めて困難な問題で、生徒を募集することに並み並みならぬ努力を必要としたことは、不況のどん底であったことも加わって予想外のことではありました。

極端な時は、一学級やっと8人の志願者を得るにとどまり、授業料を唯一の経常財源としていた学校運営にとっては破局的致命的問題であったので、職員(わずか8人程度)総動員の大車輪で、全く勤務時間も給料も度外視せざるを得ませんでした。

今思っても、よくあんなエネルギー・意気地があったものと唖然とするばかりです。

世相の移り変わりは当然でしょうが、人間はああした私心を捨て利害を無視した創造性が、何人かによって果たされるべきものではないでしょうか。そこにこそ社会の進歩・人類の幸福が招致せられるものであるということは、万古不易の鉄則だと私は信じております。こうした没我的な精進が人間の最も美しい姿だと私は自慰致しております。

昭和19年度、時代の要請による5か年制のいわゆる甲種程度の完成。加えて私の持論であった農学校女子部の創設も昭和19年4月にスタートすることになり、私としては農学校創立建設の願望は一応築き上げられることになりました。

この時点で私は退陣する決意を秘かに抱くに至りました。最大きな原因は、大東亜戦争の敗戦は避け難い日本の運命であり、学校の存在すらどうなるか皆目見当がつかなくなったことです。当時の日本は、その存立自体が危機に立ち最も深刻な悲壮そのものの世相でした。

その後幸いにして終戦処理も一応軌道に乗り、君主制議会民主政体として完全に再出発を決意し、平和民主憲法のもと第1回国会が昭和21年に発足し、続いて昭和22年4月静岡県議会が新しく発足することになりました。

人格主義教育を基調に、終身教育に専念しようとした初志は、敗戦によって教育を断念することが不可避となった以上、第二の人生を如何に生くぺきか苦慮し続けた私は、政界の浄化、政治の倫理化をモットーとし政界に進出すべく決意し、選挙戦に臨んだのであります。

幸い教え子・同窓生の異常な御支援を戴き、美事第1位で断然勝つことができました。時に46歳でした。

爾来選挙戦6回・お蔭と勝利当選に恵まれ・本年23年目を迎えるに至りました。

その間、県政の浄化進展、地域の開発に真面目に取組んで参ったと自負致しております。政治の倫理化・地域の社会開発は、20余年の歳月で完成するものではありません。恐らく無限に永劫に追及せらるべき命題と存じます。

しかし、幸い原子力発電所の誘致もほぼ成功し、御前崎港の開発も計画化せられ、近い将来1万t級の船舶が入港し得る立派な工業港に変貌することに間違いありません。

一方、東名高速道路インターチェンジの菊川誘致に成功、これらを基幹事業として東遠地域の開発に画期的な飛躍を遂げるものと確信致します。誠に御同慶の至りです。

池高も、形式は運動場を含め恐らく県下有数の県立学校であります。昭和45年からの2カ年事業として、第二棟約1億5千万円の建設も、私の在任中必ず実現するであろうことをお約束致します。

補習学校開始から50周年、私が責任者として学校を経営してからでも43周年です。この度、式典を行ない祝賀するとのこと、誠に感無量です。

池高の創立、私は人間としてよい仕事をしたと喜んでおります。これで丸尾家の婿養子としての家名存続の務めも果たしたと、独り喜んでおります。

私は当時「人格の完成なくして如何なるイデオロギーもナンセンスと断定する」者であることを付記して記念の言葉と致します。