小山田 弘子

 

卒業して既に60数年も経ってしまったが「池高」は我が心のオアシス。 3年間の日々は、私の生涯にとって、思い出が一番濃く、今もあふれ出る。

 「女子で初めて」と、生徒会長になったことを、当時の渡水猪作校長先生が喜んで下さり励まして下さった先生の言葉は、後の私の生き方に、大きな指針を与えて頂いたと今も想い続けている。

 入学後、中学からの延長線で迷いもなく「文芸部」に入り、3年間、部誌「鵬鯤」(ほうこん)の発行も楽しみであった。顧問の中嶋敏雄先生の事も忘れ難い。私が書く詩作品を見て、かつてご自身が所属していた詩人・北川冬彦氏監修の同人誌『時間』を見せて下さった。

 このことが縁で怖いもの知らずに、在学中、東京・信濃町の北川冬彦宅を訪ね、勧められるままに『時間』会員・同人となり、高校卒業後は東京で暮らすと決め込んでしまった。

 親の反対を押し切り、「一切の援助はしない」、との厳しい言葉を受け、「何が何でも稼がなくては」、と、就職指導の樽林先生に東京での就職先を相談。当時、世の中は不況で「なべ底景気」と称され、富士精密とか東京ガスとか、何社も降り落とされた。最後の頼りは東京都職員採用試験。受験するも自信なく、在京の叔母を頼り、「虎の門病院の事務職の採用」を得た。直後に東京都の合格通知を受け、迷いつつも樽林先生への義理をも感じ公務員の道を選ぶこととした。心の内は只々北川冬彦の門下に入ることばかりを想い詰めていた。が、都の仕事も職場仲間に恵まれ、渡水先生の昔の励ましを想い起し、係長職時は児童福祉司職一途を選び、定年退職まで全う出来た。

 現代詩も29歳時に第一詩集『花の騒ぎ』を刊行。以後、60歳『風を追う一児童福祉司の日々』71歳『迷い道一六十歳の私 七十歳の私』73歳『迷い道一つむぐ歳月』74歳『取扱注意』79歳『喜傘 寿ぐ』と、全六冊の刊行で中島先生への謝恩をも想った。